うずらまん「ぎょぎょ〜む日誌」

おはようからおやすみまでできるだけ楽しくと願う、うずらまんの日記。

残念な結末

▼今日は廣東語が少し長いのだ。来週休みだからちょっと長めにということになったのだ。その分、いろいろな話が出てきてとても楽しかった。たっぷり2時間ちょい。
 LOMO halfの二本目のフィルムを現像に出す。レンズカバーのファインダー窓を自分で少し削ったが、その成果が出ているかどうか。上がってきたのを見るとましになったようだ。よかった。
 「うずまき編集室 来客コーナー」の例の話は、懸念していたような、だんだんおかしな方向に向かってしまった。こうなると困ってしまうよなぁ。
「限定された特別な状況であれば私は風俗で働く」
 極限の状態なら僕だって家族のためなら泥棒もするだろうし人殺しも自分の命を犠牲にもする。でもそれが窃盗や殺人や自殺を認めるという話とは違う。全く別の話だ。売春にしても同じである。別の次元の話を一緒に話すのは全くのナンセンス。
 助けられる側の気持ちを無視した一方的な自己満足的安直ヒューマニズムの押し売りである。助けられた人がそれで喜ぶと思う? そのことが逆に傷つけることにもなるというのは完全に切り捨てられているのだ。僕が大けがをして手術に大金が必要だとして、それを助けるために娘が躰を売って金を集めたとしても、僕は絶対にうれしくない。
「それでも私はやる」
 というのはエゴだ。
 特別な状況下ではどうのとか、貧しい国の人がどうのとかいう、次元の違う話を一緒くたに語っても意味がない。それは違うテーマなのだから違う切り口で語って行くべきことだ。そこにまず気づいて欲しかったのだが、
「孤児だった知人は、風俗で短期間に何千万貯めて田舎に孤児院を建てた」
 なんて書き込む人も出てきてなおとほほである。