うずらまん「ぎょぎょ〜む日誌」

おはようからおやすみまでできるだけ楽しくと願う、うずらまんの日記。

まだまだかんがえる#1

▼まだ昨日の続きで考えている。自分でもいろいろと迷っていることがあるからかもしれない。
 犯人にどんな償いをさせ続けても心の中はどう変化しているのかなんて、誰にもわからない。償いという行為をし続けることによって自分の心を解放し、自分が行った殺人を自分の中で正当化したり、またその事実を封印してしまうということだってあるかもしれない。そうなったら償いが、償って欲しいと願っている残された人々にとっても無意味になる。まあ、それも表面上はそれはわからないから、残された人が納得すればいいだけの話なのかもしれないけど。
 人が人を殺すということは、僕自身の中ではどんな理由も理由にならない。衝動的な殺人犯に襲われたとき、自己の正当な防衛のためというのであってもそこに相手を殺してやろうという意志が瞬間にでも存在した場合は、正当ではないとさえ思う。そんなときに相手を殺してやろうなんてことを思う余裕はないだろうけど。
 過激な言い方かもしれないが、人を殺した人が生きていること自体がナンセンスだ。今回の事件とケースは違うが、某航空機爆破事件の時の犯人の女性が恩赦になって、今は手記を書いたりして、またその女性への求婚者が殺到したというような報道が過去にあった。手記を書いて事実を伝えることが償いになると世間では見ているのか。というかそう考えるように演出されているのに気づいていないのだ。商売に、政治的イメージ戦略にまた利用されているだけだ。
 国家的な命令でさせられた殺人だとはいえ、自分の命と他人の命を、天秤に掛けた結果彼女は自分の命の方を重いと判断したわけだ。その時点で彼女の尊厳は崩壊していた。演出によってこうも世間の見方を変えることができるものなのだなぁ。